2005年06月13日

安全学

『日本社会は、個人対公共の表面上の責任に関しては、公共のお節介に傾きがちであるにもかかわらず、不思議なことに交通事故についてだけは、公共は極めて無責任である。
その原因の一つは、事故が起こったときの一切の処理が、警察に委ねられており、警察は、ドライヴァーの「取り締まり」という役割から抜けられないという点にありそうである。つまり事故は、一人一人に運転者が、規則を守って十分注意して運転していれば起こらないものであり、逆に、起こった事故は、運転者が規則を破って運転していたか、さもなければ不注意な運転をしていたか、いずれにせよ、運転者に責任がある、という姿勢で、警察は事故の調査に臨む。その場合に、道路の構造や施設の側に、事故を起こすように誘導する要素がある、あるいは起こった事故の結果を悪い方に導く要素がある、というような可能性に関しては、ほとんど配慮されないことになってしまう。
そこからは、一人一人の運転者が十分注意していれば、事故は防げるのだから、安全対策のために道路設計や、その他の施設の改善に、ある程度以上の費用をかけることは、社会的に許容されない、という判断が導かれる。』

村上陽一郎「安全学」より

『運転者に責任がある』から、警備員には責任はない。
『安全対策のために・・・ある程度以上の費用をかけることは、社会的に許容されない』から、工事関係者が警備員を使わないとしても、許されるはずである。ならば、なぜ警備員を付けるように行政指導があるのか。
『道路の構造や施設の側に、事故を起こすように誘導する要素がある、あるいは起こった事故の結果を悪い方に導く要素がある』場合に、それを隠すための道具が必要になるからだろう。
こういう読み方は間違いか。
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posted by 鬱警備員 at 15:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Posted by あ at 2010年05月04日 13:36
Posted by あ at 2010年05月04日 13:36
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